某友人とブログの話

 先日友人と友人の友人で仲良くなったオタクの友人と遊んだです。そのオタクの友人とはちんことまんこ交換してぇとか大抵汚い話をしているんですが、四方山話すうちに何かの弾みで「そういやブログつけてる?」と。ほう意外な話題、と思いながら先と先々の雑記に書いたような事を話したら、奴も同じようなことを考えてブログをつけていると話してくれました。
 奴も目の前の便利な箱の中は情報整理が楽だ、と考えたみたいで、趣味の整理としてブログ及びHPをやってるそうです。どこにも誰にも知らせずにちまちま書いていたら、それなりに固定客は付いたと。へえぇぇ。面白いっすね先輩。別にそれまで何かそういう話をしていた訳でもなく、それでもこうやって同じようなことを考えるやつが友人だったっていうのがちょっと嬉しかったというどうでもいい話。

 ちょっと補遺なんだが、昔一つの小説を書いて、自分としては最高傑作だと思ったですよ。日本語も構成も良くできたし、書きたかったことも精一杯出せたんですよ。今思い返しても、ぴよぴよしているクソ餓鬼が良くやったと思う。アイスの一つも奢ってやりたいって思います。
 でもそれから暫くして、偶然自分のやりたかったことをもっと明確に形にしていた本を読んじゃったんですよ。もう凄いショック。だって自分の考えていることってこの世で唯一独尊のものだと思っていましたから。しかしそうじゃなかったんです。自分はこのように生きていこう、と思っていた信念とか理想が根底から崩壊しました。だって、自分はこの人と考えてること同じじゃないか!それって私の存在は別に私でなくても良いってことか!?じゃぁ誰かのまたは何かのコピーである私って必要ないじゃないか!!
 とはいえこの乖離に納得した上で生きていたかったので、必死で考えました。何物かのコピーだった自分の個性って一体どういうものだろう。
 そこで考え付いたのが、個性は多種多様な素材のモザイクでできている、という理屈です。誰かと共有した体験は同じタイル、誰かと同じような体験は色や形の似たタイル、しかしタイルが集合してモザイクとなった時に作られる絵柄は人それぞれ異なったものとなる、という話です。そして相同なタイルが存在するからこそ、他者とのコミュニケーションが成立するのではないかと。ただ総体として同じ集合にはなっていないから、その違いが個性の差異になっているのではないかと。
 個人的にはわりと納得しているんですが、如何せん脳足りんなんですぐに忘れちゃうんだけど上記のようなことがあったんで久々にしっかり思い出したというメモ。